【碑文】
十四年甲辰、而倭不軌、侵入帶方界、□□□□□石城、□連船□□□□□率□□□平穰、□□□鋒、相遇王幢、要截盪刺。倭寇潰敗、斬殺無數。
【訳文】
永楽14年甲辰の年(404年)、倭が謀反を企て、帯方エリアに侵入し、…城と…石城を(破り)、船を連ねて…した。(広開土王は自ら軍を)率いて平壌(から出撃し)、先鋒が(激突し)、互いの幟が相まみえたが、要所要所で(倭軍を)分断することに成功し、刺し殺すことをほしいままにした。倭寇は壊滅し、(高句麗兵が倭兵を)斬殺すること無数だった。
【解説】
高句麗軍に敗れてから4年後、おそらく百済の要請によって、倭軍は海から帯方の地へ攻め込んだ。
欠字が多く、倭が帯方(黄海道)の地に侵入してからの行動は漠然としているが、船群で北上してから上陸し、その後に城攻めを実行したようだ。
しかし、『連船』の主語をどう理解するかによって碑文の意味が大きく変わってくる。ここでは倭軍としたが、高句麗軍も巨大な水軍を有していたようだから、主語を高句麗とすれば、広開土王が水軍を率いて平壌から進軍したことになる。
また、『率』は、この碑文では常に広開土王が率いているから、倭の帯方エリア侵入に対して、広開土王自らが出陣したことが想像される。
いずれにしろ、倭軍は真正面から攻撃して惨敗したわけだが、別の見方をすれば、広開土王率いる騎馬軍団に対して、地の利の悪い敵地で正攻法を用いて戦おうとしたほどの戦力を有していたともいえる。
【字解】
この部分の欠字は、すべて判読不能。