広開土王碑文を読む[19]

【碑文】
十七年丁未、敎遣步騎五萬。□□□□□□□□□師□□合戰。斬殺蕩盡所、穫鎧鉀一萬餘領、軍資器械不可稱數。□破□溝城、婁城、□□城、□□□、□□□、□□城。

【訳文】
 永楽17年丁未の年(407年)、(広開土王は)詔を発して5万の騎兵と歩兵を派遣した。…軍団…出会って戦った、斬殺尽きることなく、獲得した鎧甲は一万余領で、軍資金や器具に至っては数えることができないほどだった。(帰還時に)…溝城、婁城、…城、…城、…城、…城を破った。

【解説】
 400年、後燕に惨敗した高句麗だが、402年には反撃を開始し、宿軍城を奪還し、遼東城を死守した(2城はいずれも遼寧省朝陽市にある)。
 407年、後燕が自壊し、北燕が建国された。高句麗末裔の高雲が天王になったため、燕国との関係は改善し、広開土王は南方戦線に集中できるようになった。この年に5万もの大軍を派遣できたのには、このような政治的背景があった。
 問題は高句麗の対戦相手。倭か百済になるが、欠字が多いためどちらとも決めがたい。
 相手方の城を陥落させながら帰還しているから、戦場は百済の支配地だったはず。
 『三国史記百済本紀』によると、この頃の百済はかなり疲弊しているから、多くの兵糧や武器を調達できたとは思えない。そうすると、高句麗と戦った主力兵は倭軍ということになる。
 個人的には『合戰』という言葉がとても気になっている。一般的には“出会って戦う”という意味だが、“合わせて戦う”と読めば、「百済と倭の連合軍が高句麗と戦った」と理解することも可能だ。
 このときの百済王は即位したばかりの腆支王で、この王は人質として倭国で暮らし、倭の後ろ盾で王位を得た人物だから、倭軍と連携して高句麗と戦ったことはじゅうぶんに考えられる。

【字解】
 『不可稱數』の次に来る文字は、“辶”の中に上が“曲”下が“水”という字形。多くの研究者がこの文字を“還”と解釈しているが、これはあくまで文意からの判断で、中国の金石文で用例を見つけることができない。高句麗独自の漢字で独特の意味を持たせている可能性もある。
 『溝城』の前の1字は、サンズイであることは間違いないが、ツクリが不鮮明で、“溝”“燁”“滿”などと読まれ、専門家の間でも意見が分かれている。

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