広開土王碑文を読む[20]

【碑文】
廿年庚戌、東夫餘舊是鄒牟王屬民、中叛不貢。王躬率往討。軍到餘城。而餘城國駢□□□□□□□□□王恩普處、於是旋還。又其慕化隨官来者、味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、埽立婁鴨盧、肅斯舍□□、□□□盧。
凡所攻破、城六十四、村一千四百。

【訳文】
 永楽20年、庚戌の年(410年)、東夫餘は始祖王である鄒牟王の時代から属民だったが、中で反乱を起こし朝貢しなくなった。広開土王は自ら兵を率いて討伐に赴いた。高句麗軍は(東夫餘の王城である)餘城に到着した。餘城国ならびに…広開土王の恩はあまねく行き渡った。そこで軍を引き返させて帰京した。また、味仇婁城、卑斯麻城、埽立婁城、肅斯舍城、…城が、(王の徳を)慕って官軍に付き従って来た。
 (広開土王が治世中に)攻め破った城は64、村落は1400だった。

【解説】
 東夫餘へ親征した記事。
 東夫餘の詳細は不明だが、広開土王の時代には松花江の下流域で暮らしていたものと思われる。
 『鴨盧』は高句麗語で城を意味する。城は単に建物を指すだけでなく、その城が支配していた地域と住民をも含む。つまり、ここでは5つの部族が高句麗に帰属したことを語っている。

【字解】
 『而餘城國』の後に来る1字は、一般的に“駢”と読まれるが、《水谷釈文》のみ“駭”とする。
 『王恩普』の後に来る1字は、一般的に“處”と読まれるが、《水谷釈文》のみ“覆”とする。
 『卑斯麻鴨盧』の次の文字は碑面では判読不能。拓本により“埽”と釈する研究者が多いが、《水谷釈文》はキヘンに“耑”と読んでいる。
 『婁鴨盧』の前の1字は、一般的に“立”と読まれるが、《水谷釈文》のみ“社”とする。
 『肅斯舍』の後の2字は判読不能だが、文脈から“鴨盧”だと考えられる。
 『盧』の前の1字も判読不能だが、文脈から“鴨”だと考えられる。

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