斯盧から新羅へ

 新羅は、朝鮮半島を初めて統一した王朝で、935年に滅ぶまで600年近く存続した。現在の朝鮮民族は、新羅によって形成されたと言っても過言ではない。
 古代新羅があった韓国東部(現在の慶尚北道南部と慶尚南道北部)は、歴代中国王朝から『辰韓』と呼ばれた。『後漢書』『三国志』『晋書』などの中国史書によると、辰韓は以下のような国だった。
 朝鮮半島に逃れた秦(陝西省にあった春秋戦国時代の国)の移民が馬韓から東の土地を与えられて建国したのが辰韓で、言葉が秦語(中国語の西北方言)に似ているので秦韓とも呼ばれた。
 燕(河北省)や斉(山東省)の流民もいたというから、半島にはかなり多くの中国人が住んでいたようだ。
 もともと六つの国があったが、後に十二の国に分かれた。各国に独立する力はなく、馬韓を宗主国と仰いでいた。
 村邑は城柵で囲まれていて、王宮があり、首長をシンジ(臣智)といい、住民は牛馬の車に乗ることを知っていた。土地は肥沃で五穀が実り、養蚕も行われていた。鉄鉱石が産出したため、鉄を通貨とし、馬韓や倭が鉄を求めて常に来訪した。
 楽器演奏、歌舞、飲酒の習慣があり、幼児は石を押し付けて頭を扁平にされた。風俗は馬韓と似ているが、言葉は馬韓と異なっていた。
 新羅の前身は『斯盧国』といい、現在の慶尚北道慶州市にあった。
 辰韓十二ヵ国のひとつで、慶州盆地にある六つの村邑から成り、六人の首長が協議して国政にあたっていた。
 三世紀後半、280年、281年、286年の三度にわたり、辰韓の一国として中国の西晋へ朝貢している。
 『三国史記』新羅本紀には、新羅には朴、昔、金の三氏があり、この三姓から歴代の王が輩出されたと記されている。
 しかし、新羅で姓が使われるようになるのは六世紀以降のことだから、この話は六つの村邑で王を共立していたことを表しているのだろう。
 中国の史書に新羅の名前が登場するのは、西暦377年のことで、前秦に高句麗とともに朝貢している。
 382年『新羅王の楼寒が前秦王に自国の美女を献上した』という記録が残っている。この楼寒が、斯盧を新羅に発展させた奈勿{ナコツ}である。『三国史記』には漢字で『奈勿尼師今』と記されているが、『三国遺事』には『奈勿麻立干』と記されている。
 尼師今も麻立干も新羅語で王を意味するが、諸処の記録を総合すると、奈勿王の時代に王号を尼師今{ニシキン}から麻立干{マリカン}に変更したようだ。

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