新石器時代後期
B.C.3000年頃~B.C.2000年頃は、新石器時代後期に区分される。紅銅や青銅で造った金属器が出現するのもこの時期で、西北地方から東へ伝播している。
華北や華中では、土塁で集落を囲った城址が建設された。山西省陶寺遺跡の城壁は、南北1500m、東西1800mもある。墓地には明らかな階層差が見られる。支配層の墓と考えられる大型墓には木棺があり、100点以上の副葬品を伴う。一方、庶民の小型墓には副葬品が数点しかなく、埋葬品がまったくない墓もある。
山東省の山東龍山文化は、大汶口文化の後を継ぐものだが、西は河南省南部、南は江蘇省まで文化的に強い影響力を及ぼした。殷王朝の二里頭文化にも直接的な影響を与えた。
長江下流域の良渚文化エリアでは稲作が進化し、水田耕作が始まった。ブタなどの家畜が増え、定住化が進んだ。墳丘墓が普及し、社会階層の上下によって規模や副葬品が異なる。首長墓には、獣文を刻み込んだ円柱形玉器の玉琮、円盤形玉器の玉壁、平板玉器の玉鉞など大量の玉製祭祀具が埋葬された。
長江中流域の屈家嶺文化エリアでは、城址遺跡が9つほど見つかっているが、最大の石家河遺跡は南北1200m、東西1100mと、陶寺遺跡に比べて遜色ない規模である。黄河中流域の城壁が外敵の攻撃を防ぐために造られたのに対し、長江中流域の城壁は洪水対策として築造された。そのため城壁内に田畑や丘陵があった。墓地の様子からすると、明確な階層分離が見られず、首長墓の出現は後期末の石家河文化まで待たねばならない。
長江上流域ではB.C.3000年頃から乾燥化が進み、森林が草原に変化したため、ヒツジやヤギなどの小型動物を牧畜として飼うようになった。墓の副葬品として南洋産のタカラ貝やトルコ石が多量に埋葬されており、交易が盛んに行われていたことが分かる。また、丘陵部に横穴を掘って造る窰洞式ようどうしき住居が発明された。乾燥した寒冷地には最適であるため、山西省では現在でもこのタイプの住居に住んでいる人々がいる。
朝鮮半島では櫛目文土器時代の中期にあたり、北部は紅山文化(『遼河文明』とも呼ばれる)の影響を強く受けた。韓国では紅山文化を韓国文化の源流、つまり古朝鮮の母体だと考える専門家もいる。日本では縄文時代の晩期がこの時代に相当する。
●城子崖遺跡
山東省龍山鎮城子崖で発見された黄河下流域を代表する新石器時代後期の遺跡。龍山鎮で発見されたので龍山文化と名付けられ、黄河下流域の新石器後期文化を指す名称となった。現在では山東龍山文化『城子崖類型』の文化基準遺跡になっている。
1930年、呉金鼎が調査し、黒陶土器や版築の城壁を発見した。シカやウシの肩甲骨を使った卜骨も発見された。 土器は灰陶が多く黒陶は少ない。
●河南龍山文化
新石器時代後期に属する河南エリアの龍山文化。年代はB.C.2700年頃~B.C.2200年頃。王湾三期類型、後岡二期類型、造律台類型の3タイプに分類されている。