『殷』は実在が文字資料で証明されている中国最古の王朝である。日本では『殷』と呼ばれているが、これは『史記殷本紀』に由来する。甲骨文や金文には『商』と記されているし、殷は商王朝の最後の都に過ぎないので、中国では商(もしくは『殷商』)と呼んでいる。最古の歴史書『尚書』にも商と記されている。
また、商人・商業の商は商王朝から来ている。西周に滅ぼされた商の人々は流浪の民となり、流通や金融を生業とした。そのため、商業に従事する人を商人と呼ぶようになったのだ。
殷の初代王は湯王とされるが、湯王は『夏』を滅ぼして中原を統一した王であり、殷という政治体は夏時代にすでに存在してした。
『先商文化』は、河北省南部から河南省北部にかけて存在した文化グループで、殷王朝の前身にあたる。『下七洹文化』と呼ぶ考古学者もいる。二里頭文化と併行して存在した。新石器時代後期の河南龍山文化を引き継いで発展し、殷時代の二里岡文化へ移行する。二里頭文化が煮沸土器として鼎ていをメインにしていたのに対し、先商文化では北方起源の鬲を積極的に使用していた。
『殷墟遺跡』から出土した甲骨文には湯王以前の王名が書かれているから、先商文化期にも殷という国があったことは確かだ。王都に該当する遺跡がまだ発見されておらず、その実態ははっきりしないが、先商文化を初期殷王朝と捉えるなら、殷の建国年はB.C.1900年頃~B.C.1700年頃に設定できる。
殷は先商文化から勢力を南に向けて拡大し、二里頭文化末期には夏の勢力エリアも吸収した。これがB.C.1600年頃の話だ。殷の湯王は河南省偃師市二里頭にあった夏の都(二里頭遺跡)を占領し、桀王を殺して夏王朝を滅ぼした。
そして、旧夏エリアを治めるため、二里頭遺跡の近くに城郭都市を築いた。統一王朝最初の都として知られる『亳』こと『偃師商城』である。その後、統治が安定すると、現在の河南省鄭州市に巨大な城壁をもつ都『鄭州商城』を造って遷都した。
殷王朝の真実[1]
