百済の建国年は、よくわからない。
『三国史記』百済本紀には、紀元前年、高句麗を興した東明聖王(朱蒙、鄒牟)の子である温祚王が、漢城(京畿道)に移って百済を建国したと記されている。
しかし、中国の史書には4世紀に到るまで『馬韓』としか記されていない。百済という国名は、372年の東晋への朝貢記事に初めて登場する。
57年(後漢の建武中元2年)に倭の奴国が光武帝に朝貢したことが『後漢書』に明記されているから、百済が三国史記の記述どおり紀元前1世紀に建国されていたなら、『漢書』や『後漢書』に百済という国名が記されているはずだ。
中国の史書は、百済の前身を馬韓の『伯済国』だとしている。夫余王が南へ亡命して楽浪郡の南で伯済国をつくり、その国が発展して百済になったという。
そうすると、馬韓が最後に朝貢した290年から百済朝貢の記事が初登場する372年の間に、百済という国号が使われはじめたことになる。
ただし、伯済国の建国年を百済のそれと考えるなら、百済の建国年を紀元前後とみなしてもよいだろう。馬韓諸国の一国だった時代の百済が、百済という国号を早くから自称していた可能性は高い。
高句麗がよい例だ。中国の史書には『隋書』『旧唐書』あたりから、高句麗がみずから称した国名である『高麗』という言葉が現れる。
しかし、413年に建てられた広開土王碑で、すでに『高麗』と名乗っている。隋の時代になるまで、中国諸王朝には高麗と呼んでもらえなかったのだ。ちなみに、720年編纂の『日本書紀』では、高句麗の国名を一貫して『高麗』{こま}としている。
『日本』という国号も、中国の史書で統一して使用されるのは『新唐書』からで、『旧唐書』では倭と日本が併用されている。
『百済の支配層と被支配層では民族が異なっていた』のではないだろうか。中国の史書を信じれば、紀元前後の馬韓にはすでに数十万もの人が暮らしており、辰韓のような移民記事も見られない。
また、考古学的にみても、支配層の遺物には北方騎馬民族の影響が色濃く表れているが、一般庶民の住居や墓地の遺跡には半島文化の伝統が綿々と引き継がれている。
北からやってきた扶余系一族が、馬韓北部へ侵入して小国を建て、その後、漢江中下流域の国々を糾合して百済を名乗ったのだろう。
百済の建国年
