百済の地は、もともと馬韓といった。
四世紀中頃までの朝鮮半島は、西から、馬韓、弁韓(弁辰)、辰韓に分かれていた。
そのうち馬韓は、おおよそ現在の京畿道、忠清北道、忠清南道、全羅北道、全羅南道にあたる。総人口は十万余戸。五十数ヵ国に別れ、各国に王がいた。
中国の史書によると、馬韓諸国を統べる王は『辰王』と呼ばれ、その都は『目支国』にあった。辰王は弁韓・辰韓の王でもあり、三韓の地の大王とされた。しかし、記録が何もも残っていないので、王の支配体制も目支国の場所も皆目見当がつかない。
馬韓の人々は農耕民で、蚕を育て綿を作ることを知っていた。長幼男女の区別なく一緒に暮らし、綿入れの服を着用し、革製の草履を履いていた。春と秋には祭りがあり、昼夜問わず歌舞して飲酒して楽しんだ。
弁韓・辰韓とは、風俗習慣は似ていたが、言葉は異なっていたという。
特異な習慣も記されている。若者は自分の勇敢さを証明するため、背中の皮に穴を開けて縄を通し、大棒を結わえて練り歩き、弱音を吐いたり苦痛を訴えない。これは現代でも見られる奇習だが、1700年以上も前の韓半島にもあったらしい。
紀元前108年に前漢の武帝が楽浪郡(平壌)を設置すると、馬韓諸国は四季ごとに朝貢して交易を行った。
前漢の朝廷は、楽浪郡一帯(平安南道)以外は直接統治せず、命令に従っているかぎり各国の内政に干渉しなかった。この方針は、続く新、後漢、魏、西晋に引き継がれた。
『三国志』によると、二世紀後半の馬韓諸国は発展著しく、楽浪郡による統制が効かなくなっていた。圧制を嫌った中国人が馬韓の地へ逃げ込んだため、楽浪郡が軍隊を派遣して戻らせようとしたが、効果は上がらなかった。
3世紀に入ると、中国は分裂状態になり、楽浪郡、帯方郡、玄莵郡を含む遼東地方は、公孫度・公孫康親子が実質支配するところとなった。
馬韓諸国は魏との交易を妨害され窮地に陥ったが、238年、康の子の公孫淵が魏の司馬仲達に敗れたおかげで、帯方郡を通して魏と直接交易できるようになった。
239年には、倭の邪馬台国女王卑弥呼も、帯方郡経由で魏に朝貢している。
277年から290年の間に、馬韓が西晋へ8回朝貢した記録が残っているから、歴代中国王朝とも密接な関係を維持していたようだ。
ちなみに、倭国も、240年、243年、247年に魏へ朝貢している。
313年、高句麗の美川王が楽浪郡を併呑し、翌年には帯方郡も自国領とした。
この影響で、三韓諸国や倭は中国と直接交渉を持つことができなくなった。
しかし、馬韓・辰韓・倭は、中国の影響力が低下することで独立の気運が高まり、それぞれが百済・新羅・大和へ発展することになる。
百済揺籃の地
