私的翻訳は以下のとおり。
(高句麗は)天道を授けられて自ら初代王(の資格)を承った始祖王である鄒牟王が国の基を創った。
(鄒牟王は)天帝の子であり、河伯の孫であり、神霊が助け守って庇護し、開国して領土を広げた。その血脈は代々受け継がれ…。
墓守たちは河の流れで…、長きにわたって祭祀を行いつづける。墓守は…。墓守は…。富む者でも墓守を転売してはならない。墓陵を守護する者は(墓守の名前を碑に)刻んで…。
(第19代高句麗王の)国𦊆上太王号平安太王は、この上もなく武徳に優れ、輿に乗って東西を…。先聖の勲功を述懐し、歴代王の長きにわたる隆盛を継ぎ…
戊申年に(国の陵墓に関する)法を定め、(関係者に)教え諭し、法を発して(墓地を)整えた。またおのおのが…。(歴代王の)各陵墓に碑を立て、墓守の頭20人の名前を刻んで後世に示す。
これより(国陵を)守護する民は、(墓守を)勝手に売ってはならないし、互いに転売してもならない。(王族、貴族などの)富む者といえども(墓守を)売買してはならない。法に背く者は後世に…碑文と罪過を見よ。
ほぼ同様のことが『好太王碑』にも書かれており、好太王碑文の信憑性がさらに高まった。
好太王碑文には『国王陵すべてに石碑を立てた』と記されているにもかかわらず、好太王碑以外の石碑がひとつも発見されていなかった。
そのため、実際には石碑を造らなかったのではないかという意見もあったが、今回の発見で碑文の記述どおりに歴代王の墓碑が製作されたことが証明された。
集安麻線高句麗碑の製作年代に関して、414年に建立された好太王碑とほぼ同時期であると考えている。漢字の書体が酷似しているし、文中の表現に共通性がみられるからだ。広開土王時代と主張する人もいるが、碑文に広開土王の諱が入っているから、それは有り得ない。
本来は広開土王が自ら采配をふるうつもりだったが、急死してしまったため実行に移すことができなくなり、息子の長寿王が父の計画を引き継いだのだろう。
ちなみに最後の部分だが、好太王碑文では『有違令賣者刑之買人制令守墓之』(違反があった場合、売った者には刑罰を与え、買った者には法令に則って陵墓を守らせる)と謳われている。