後漢の建武二十四年(西暦48年)七月二十七日、九干たちは王に奏上して言った。
「大王はまだ王妃を娶っておられません。我々家臣たちの娘の中からご自由にお選びください」
「朕がここに来たのは天命によるものだ。王妃も天命によって自然に定まるだろう」
首露王はこう答えると、留天干には望山島へ、神鬼干には乗岾国へ行くよう命じた。
二人が到着すると、こちらへ向かってくる異国船が見えた。留天干が島の上で松明を掲げると、船から人が降りてきた。その様子を見ていた神鬼干が王宮で報告すると、首露王は自ら迎えに赴いた。
船から降りてきた王妃が首露王に言った。
「わたくしはインドのアユダ国の王女です。姓は許、名は黄玉と申します。年は十六です。今年の五月のことでございます。父母が夢を見ました。そのとき、上帝のお言葉がありました。駕洛国の首露王にはまだ王妃がいないから、おまえたちの王女を東へ向かわせなさいと」
首露王が答えた。
「わたくしは聖なるがゆえに、王女がはるばるやってくることを知っておりました。だから、いままで王妃を娶らなかったのです。あなたのような王女を迎えることができて幸せです」
ある日、首露王が家臣たちに言った。
「九干たちの職位と称号は典雅ではない。上に立つ者の称号としてふさわしくない」
こうして、我刀を我諧、汝刀を汝諧、彼刀を彼蔵、五方を五常、留水を留功、留天を留徳、神天を神道、五天を五能、神鬼を臣貴に改めた。また、新羅や漢の制度を導入し、国と家を治め、民をわが子のように慈しんだ。
この年、王妃は熊が出てくる夢を見てから太子の居登公を産んだ。
後漢の中平六年(西暦189年)三月一日、王妃がなくなった。157歳だった。遺骸は亀旨峰の東北にある丘に葬られた。王妃の恩を忘れないように、王妃が初めて上陸した渡頭村を主浦村と改名し、初めて着岸した海辺を旗出辺と名づけた。
その後、首露王は嘆き悲しみながら暮らし、十年たった後漢の建安四年(西暦199年)三月二十三日に崩御された。158歳だった。
人々は自分の父母をなくしたときのように悲しんだ。王宮の東北にある平地に陵墓を造って埋葬した。その場所を首陵王廟といい、嫡子の居登王から九世孫の仇衡までがこの廟に祀られた。
(韓国弁韓始祖神話)