高句麗建国時の状況

 高句麗族は、渾江流域の五女山(中国遼寧省桓仁)に卒本城を築いて都としていた。五女山は天然の要害で、遠くから眺めると、岩で作ったシルクハットのように見える。上部が平らで、築城しやすく、防衛にも適していた。
 彼らが五女山に住みはじめた時期はよくわからないが、考古学調査で発見された墳墓、土器、鉄製武器などから推察すると、紀元前三世紀には都と呼べる城市があったようだ。
 その規模から、このときすでに首長を戴く小国家があったことは間違いない。古伝は甲申年に建国したと言っている。
 民族としての高句麗は、夫余と同じツングース系で、言葉や習慣も夫余とほぼ同じだった。高句麗の北にあった夫余は、中国吉林省の大部分を有していた大国で、広大な平原で穀物を育てながら、森や川で狩猟をして暮らしていた。
 しかし、高句麗族が暮らす渾江流域は、山が多く畑が少なかった。そのため、彼らは定住民ではあったが、農業だけでは食糧が足りず、山で鹿や熊を追い、毛皮や薬草を売って生計を立てていた。
 紀元前770年に周が洛陽に遷都して以来、長らく分裂状態にあった中国だったが、西に秦王政が現れると、瞬く間に中原諸国を併合していった。
 現在の中国河北省北部から遼寧省南部を領土としていた燕は、春秋時代から続く強国で、現在の北京を都としていた。東胡、東夷の国々は燕の商人と交易することで必要な物を手に入れており、燕へ朝貢する国も少なくなかった。
 しかし、紀元前222年、燕は秦にあっけなく滅ぼされてしまった。翌年、秦の始皇帝として即位した政は、強力な中央集権制(郡県制)で全国を治めるべくさまざまな手を打ち始めた。
 記録には残っていないが、初期の高句麗は、秦の影響を大きく受けたであろうとおもわれる。

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