王氏高麗は918年に王建によって建国された王朝だが、高麗にはモンゴルの血を引く王が在位していた。高麗は建国以来、常に北からの侵入に悩まされた。993年から1037年まで契丹族の遼は手を休めることなく高麗を攻撃して服属を要求した。遼が国力を弱めると女真族が台頭し、1115年に金が建国されると、朝貢と金年号の使用を強要されたが、チンギス・ハン率いるモンゴル軍が遼東に攻め入ると、高麗はモンゴルと結んで金を討ち、1224年、独立の回復に成功する。
しかし、1231年から今度はモンゴルによる侵入が始まる。30年近く交戦して耐えたが、1259年、第23代高宗が降伏し、太子を人質として北京に送ることになった。
高宗が崩御すると、人質となっていた元宗が呼び戻されて即位した。第24代元宗は徹底的に親モンゴル政策をとり、太子の嫁としてフビライの娘クツルガイミシを迎え入れた。 1274年8月、第25代忠烈王が即位すると、10月に『文永の役』がおこった。忠烈王は人質として大都(現在の北京)のモンゴル王宮にいたとき日本への侵攻をフビライに進言していた。有言実行ということなのだろうが、高麗の民は多大な戦費を背負わされた。そればかりか、1278年には『辮髪胡服令』が出され、頭髪を辮髪にしてモンゴル服を着用するよう強制された。
1298年、モンゴル人を母とする第26代忠宣王が即位した。この王は青年時代を大都で過ごし、フビライの曾孫を王妃としていた。イジリブカというモンゴル名も持っていた。
次の第27代忠粛王もモンゴル人を母としていたから、この時点で高麗の血は4分の1しかなかったことになる。忠宣王同様、大都で育ち、モンゴル皇族を王妃とし、アラトトリシというモンゴル名を持っていた。
第28代忠恵王は高麗人を母としたが、王妃はモンゴル人で、ブタジリというモンゴル名を持っていた。
第29代忠穆王はモンゴル人を母とし、王妃はモンゴル人でパスマドアジというモンゴル名を持っていた。このように高麗では忠宣王以降、王朝が滅ぶまでモンゴル人の血を引く王が即位しつづけた。
しかし、モンゴルの血を引くからといって高麗王朝が常に親モンゴル政策をとっていたわけではない。たとえば、第31代恭愍王は即位するとすぐに辮髪胡服令を廃止し、親明政策に転換している。モンゴルの血を色濃く引いているとはいえ、祖国はやはり高麗だったということなのだろう。
高麗にはモンゴルの王がいた
