安が平州牧になったのは、385年から数年後のこと。第19代広開土王の在位期間は『広開土王碑文』によって391~413年だとわかっている(『三国史記』は392~413年とする)から、安を広開土王とするのが妥当だろう。
しかし、同じ『梁書高句麗伝』で、璉を安の孫としている。同書内で璉の次を「璉の子の雲」と記しているが、これは明らかに間違い。したがって、『梁書高句麗伝』の記述を全面的に信用するわけにはいかない。ちなみに、『北史』には釗、安、璉が登場するが、互いの関係は記されていない。
梁書の「璉は安の孫」という記述を信じるなら、長寿王は故国壌王の孫だから、安は第18代故国壌王(伊連、於只支)になる。「安が後に遼東郡を占領した」という部分を信じるなら、安は広開土王に比定される。さまざまな史料を総合すると、安は広開土王の可能性が高い。
雲から蔵までの比定に問題ないだろう。ただ、系図や没年には多少の異同が見られる。たとえば、延は第23代安原王だが、『三国史記』が安原王を安臧王(安)の弟としているのに対し、『梁書高句麗伝』は延を安の子としている。また、安臧王の没年に関し、『三国史記』の分註に「この年は梁の中大通3年(531年)で魏の普泰元年(531年)である。梁書には安臧王在位第8年の普通7年に崩御したとあるが誤りである」とある。
中国の史書に見える高句麗王の比定[4]
