扶芬奴は兵を率いて入城した。鮮卑はこれを望み見て驚愕し、大急ぎで引き返した。扶芬奴は城門で立ち塞がって戦い、多くの敵軍を斬り捨てた。王軍は旗を立て軍太鼓を打ち鳴らしながら進軍した。
前後を取られた鮮卑軍は作戦に窮し、高句麗軍の力に屈して降伏した。こうして、鮮卑は高句麗の属国となった。
王は扶芬奴の功績に煩慮して領地を与えようとしたが、扶芬奴は辞退して受け取らなかった。
「このたびの戦勝は王の人徳によるものでございます。私になど何の功績もございません」
王は黄金30斤と駿馬10匹を下賜した。
14年(B.C.6年)春正月、夫餘の帯素王が遣使して、開国と人質の交換を要望した。王は夫餘が強国であることをおもんぱかり、太子の都切を送ろうとしたが、都切は恐れて入国しなかった。夫餘王は怒った。
冬11月、帯素王が5万の兵で攻めて来たが、大雪のために大量の凍死者が出て引き上げた。
19年(B.C.1年)秋8月、お供えの豚が逃げたので、王は託利と斯卑に命じて追わせた。長屋沢の中で捕え、刀で脚の筋を切った。
このことを聞いた王は怒り、
「天神に捧げるための犠牲をどうして傷つけたのだ」
と言って、二人を殺してしまった。