しかし、王莽は聞き入れず、詔を発して荘尤に高句麗を討たせた。荘尤は将軍の延丕を誘き出して殺害し、その首を都の長安(陝西省西安市)に送った。王莽は大いに喜んだ。そして、高句麗の王を『下句麗侯』に格下げし、国中に周知徹底させた。屈辱を受けた高句麗は、新の辺境地域を侵してまわった。
32年(13年)冬11月、夫餘が侵入した。王は無恤に兵を率いさせて防衛にあたらせた。無恤は兵が少なくて守り切れないことを危惧し、計略を練って採用した。
無恤は自ら軍を率い、山や谷に伏兵を潜ませて待った。夫餘軍が鶴盤嶺の麓へ直進して来たので、無恤は伏兵に攻撃させて夫餘の不意をついた。夫餘軍は大敗し、馬を捨てて山の上へ逃げたが、無恤は兵を出撃させ、夫餘兵をことごとく殺した。
33年(14年)春正月、王は無恤を太子とし、国事と軍事を任せた。
秋8月、王は烏伊と摩離(二人とも朱蒙とともに夫餘を離脱した旧臣)に2万の兵を与え、梁貊国(玄莵郡所属の一郡)を滅亡させ、さらに軍を進めて高句麗県(玄莵郡所属の一郡)を奪った。
37年(18年)夏4月、王子のひとりが船着場で溺死した。王はとても悲しんだ。遺体を捜させたが見つけることができなかった。のちに沸流(部族名)の祭須という者が亡骸を見つけて通報した。遺骨は王子の儀礼に則って王骨嶺に葬られた。祭須には金10斤と畑10頃が与えられた。
秋7月、王が豆谷に行幸した。
冬10月、瑠璃明王が豆谷の離宮で薨去した。遺体は豆谷の東原に埋葬された。諡号を瑠璃明王とした。