8年(25年)春2月、乙豆智を右輔(右大臣)に任命し、国政と軍事を任せた。
9年(26年)冬10月、王は蓋馬国(鴨緑江上流域にあった小国)に親征した。蓋馬王は殺されたが、民は安寧で、奴隷にされることも私財を没収されることもなかった。その地が高句麗の領地に組み込まれた。
冬12月、蓋馬国が滅ぼされたことを聞いた句茶国王が、危害が自分に及ぶことを恐れて国ごと投降してきた。このようにして、王は領土を広げていった。
10年(27年)春正月、乙豆智を左輔(左大臣)に昇格させ、松屋句を右輔に任命した。
11年(28年)秋7月、後漢(25~220年)の遼東郡太守の将兵が高句麗を攻撃してきた。
王は家臣を集めて軍議を開き、野戦か籠城かを尋ねた。
松屋句が答えた。
「臣が聞くところによりますと『徳に頼る者は栄え、力に頼る者は滅ぶ』そうです。中国は不作で収穫が少ないうえ、各地で盗賊が蜂起しています。このようなときに出兵することは、大義名分にかないません。このたびの侵入は、皇帝や宰相が決めたものではなく、きっと辺境の太守が自分の欲のために我が国を侵しているのでしょう。これは天に逆らい人に背くものですから、今回の軍が功を奏すことなどありえません。ですから、険峻な場所で奇襲を仕掛ければ、必ず破ることができるでしょう」