【第11代】東川王(優位居)[11-2]

 12年(238年)、魏の太傅の司馬宣王が、大軍を率いて公孫淵を討った。王は主簿や大加を派遣し、1000人の高句麗兵で魏軍を助けた。

 16年(242年)、王は将軍を派遣し、遼東郡の西安平(遼寧省丹東市)を襲撃して討ち破った。

 17年(243年)春正月、王子の然弗を王太子とした。国内の囚人に恩赦を行った。

 19年(245年)春3月、東海(日本海)地方の人が美女を献上した。王は美女を後宮に入れた。
 冬10月、出兵して新羅の北辺に侵入した。

 20年(246年)秋8月、魏は幽州刺史の毌丘倹を派遣し、万人の兵が玄莵郡から出発して高句麗に侵攻した。
 王は歩兵騎兵合わせて2万の軍を率い、沸流水で迎え撃った。
 高句麗軍は魏軍に勝利し、3000あまりの首を得た。その後、梁貊谷(中国遼寧省丹東市)で再戦してまた勝利し、中国側の死者と捕虜はまた3000余りにのぼった。
 王は諸将に言った。
「魏の大軍が我が国の小軍に勝てないでいる。毌丘倹は魏の名将だが、その命運は我々の掌中にある」
 王は5000の鉄騎兵で魏軍を追撃したが、毌丘倹が方陣の形で決死の戦いを行ったため、高句麗軍は逆に壊滅させられてしまい、1万8000余人の死者を出してしまった。
 王は千余騎の兵とともに鴨緑原へ逃げた。
 冬10月、毌丘倹が丸都城を陥落させ、家畜を屠殺するかのように住民の命を奪った。そして、将軍の王頎に王を追わせた。
 王は南沃沮(咸鏡南道にあった濊貊系種族の国)へ逃げようとして竹嶺(咸鏡南道咸興市)へ向かったが、途中で兵が散ってしまい、王の側に残った者はほとんどいなかった。東部(高句麗五部のひとつ)の密友だけが側にいた。

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