11年(280年)冬10月、粛慎が侵入して辺境の民を殺した。
王が群臣に言った。
「寡人はたいした能力もないのに、誤って国の大元である王位を継いだ。しかし、寡人の徳では民を落ち着かせて従わせることができないし、周辺国を畏れさせることもできない。そのため、隣敵が我が国の辺境を侵した。
そこで、計略に優れた家臣と勇猛果敢な将軍を得て、遠方での折衝に当たらせようと思う。奇抜で優れた計略を考え出せて、戦場での指揮能力に秀でた者を推挙せよ」
群臣は口を揃えて言った。
「王弟の達賈様は、勇敢で知略があり、大将に最適のお方でございます」
そこで王は、達賈を派遣して粛慎を討たせた。
達賈は奇策を用いて敵の隙を突いた。檀慮城を落城させ、そこの酋長を殺した。夫餘の南にある烏川(松花江流域)に600戸余りを遷し、投降してきた6、7の部落はそのまま高句麗の郡県に組み込んだ。
王は大いに喜び、達賈に『安国君知内外兵馬事兼統梁貊粛慎諸部落』の称号を与えた。
17年(286年)春2月、王弟の逸友と素勃が、謀反を企てた。
病気と偽って湯治に行き、腹心の家来たちと無節操に楽しみながら反逆の方策を議論した。王は『国相に任命するからすぐ出仕せよ』と偽って二人を呼び出し、近衛兵に命じて誅殺させた。
19年(288年)夏4月、王が新城へ行幸したとき、海谷太守が鯨の目を献上した。鯨の目は夜になると光った。
秋8月、王は東方で狩猟を行い、白い鹿を捕獲した。
9月、王都で地震が起こった。
冬11月、王が新城から都に戻った。
23年(292年)、王が薨去した。西川の野原に埋葬され、諡号を西川王とした。