烽上王(雉葛王ともいう。在位:292~300年)は、諱を相夫(もしくは歃矢婁)という。西川王の長子である。幼いときから驕り高ぶって身勝手な振る舞いを繰り返し、疑い深かった。西川王の23年(292年)に王が薨去し、太子の相夫が王位に就いた。
元年(292年)春3月、王は安国君の達賈を殺した。
功績が大きく民から慕われている伯父(父の弟)の達賈が王位を簒奪するのではないかと疑った王は、達賈を謀殺した。
人々は言った。
「安国君がいなければ、梁貊や粛慎の侵入を防ぐことはできなかっただろう。いま安国君がお亡くなりになられて、将来を誰に託せばよいのだろう」
弔問して涙を流さない民はいなかった。
2年(293年)秋8月、慕容廆(前燕の始祖。在位:285~333年)が高句麗を侵略した。
王は慕容軍を避けるため新城へ行こうとしたが、鵠林に至ったところで慕容廆に気づかれた。慕容廆は兵を率いて追撃し、いまにも王を捕えようとした。王は恐れおののくばかりだった。
そのとき、新城の将兵で北部(高句麗五部のひとつ)の小兄(14等級中第11の官位)の高奴子が、500騎を率いて王を迎え、敵軍と奮戦して撃破した。
慕容廆の軍は敗退した。
王は喜んで、高奴子を大兄(14等級中第10の官位)に昇格させ、鵠林の地を下賜した。
秋9月、王弟の咄固に異心ありとして、王は咄固に死を賜った。咄固の無罪を想って、民は嘆き悲しんだ。咄固の子の乙弗は野に逃げた。