宇文部の長である悉独官が言った。
「高句麗と段部が退いても、我が国だけで棘城を奪い取ってみせる」
慕容廆は、息子の慕容皝と長史の斐巍に精兵を率いさせて先鋒とし、自分は主力を率いて後に続いた。悉独官は大敗し、なんとか自分だけ逃げることができた。
これを聞いた崔毖は、兄の子の崔燾を偽の祝賀使として棘城へ派遣した。
会見に臨み、慕容廆は武力をちらつかせた。そのため、崔燾は恐れおののいて自白してしまった。慕容廆は崔燾を帰国させ、崔毖に伝えさせた。
『投降するのが上策で、逃亡するのは下策である』
慕容廆は、崔燾の後を追った。崔毖は数十騎とともに城を捨てて高句麗に逃げ込んだ。残された家来たちはみな慕容廆の軍に投降した。
慕容廆が息子の慕容仁に遼東の官府を守らせたため、街や里は以前と変わらず平穏だった。
高句麗将軍の如孥が河城にいた。慕容廆は将軍の張統を派遣し、不意をついて襲って如孥を虜にし、家来千余家を捕虜として棘城に連行した。
王は、しばしば遼東郡に攻め込んだ。慕容廆は、慕容翰と慕容仁(ともに慕容廆の息子)を派遣して高句麗軍を攻撃させた。王が盟約を求めたので、慕容仁は帰還した。
21年(320年)冬12月、王は軍を派遣して遼東郡を攻撃したが、慕容仁が防戦して高句麗軍を討ち負かした。
31年(330年)、王は後趙(五胡十六国のひとつ。河北省にあった)の始祖である石勒(在位:319~333年)に使者を出し、楛矢(北方狩猟民族が使う長弓)を贈った。
32年(331年)春2月、王が薨去した。王は美川の野原に埋葬され、諡号を美川王とした。