【第18代】故国壌王(伊連)

 故国壌王(在位:384~392年)は、諱を伊連(もしくは於只支)という。小獣林王の弟である。小獣林王は在位14年で薨去したが、跡継ぎがいなかったため王弟の伊連が即位した。

 2年(385年)夏6月、王は4万の兵で遼東郡を攻撃した。
 後燕(五胡十六国のひとつ)の慕容垂(初代皇帝)は、帯方王の慕容佐に首都の龍城を守らせていた。
 慕容佐は我が国が遼東郡を攻撃したと聞き、司馬郝景に兵を与えて救援に向かわせたが、我が軍は司馬の軍を討ち負かし、遼東郡と玄莵郡を陥落させ、男女1万人を捕虜にして帰還した。
 冬11月、後燕皇帝の慕容農(慕容垂の第3子)が兵を率いて侵入し、遼東郡と玄莵郡を奪い返した。
 幽州と冀州(遼河西部)の民が、大挙して高句麗に流れてきた。
 慕容農は范陽郡(河北省)の龐淵を遼東太守に抜擢した。龐淵は流民たちを呼び戻して鎮撫した。
 12月、地震があった。

 3年(386年)春正月、王子の談徳を太子とした。
 秋8月、王は兵を発して南へ向け、百済を征伐した。
 冬10月、桃やスモモの花が咲き、牛が馬を産み、その馬には足が8本、尾が2つあった。

 5年(388年)夏4月、大干魃に見舞われた。
 秋8月、イナゴの被害に遭った。

 6年(389年)春、飢饉のため人々が共食いした。王は国倉を開き、民に生活物資を分け与えた。
 秋9月、百済が侵入し、南辺の部落を略奪して帰った。

 7年(390年)秋9月、百済王は、達卒(百済の官位名)の真嘉謨に都押城(平安南道中和)を攻略させ、200人を捕虜にして連れ帰った。

 9年(392年)春、王は新羅に使者を出して修好を求めた。新羅王は甥の実聖を人質として派遣してきた。
 3月、教書を発布して、仏教を崇拝して幸福を求めることにした。各地の役所に命じて、国社(民のための地方神を祭る廟)を建立させ、宗廟を修築させた。
 夏5月、王が薨去した。故国壌に埋葬し、諡号を故国壌王とした。

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