60年(472年)春2月、北魏に朝貢した。
秋7月、北魏に朝貢した。このときから献上する朝貢品が2倍になり、下賜品がいくばくか増えた。
61年(473年)春2月、北魏に朝貢した。
秋8月、北魏に朝貢した。
62年(474年)春2月、北魏に朝貢した。
秋7月、北魏に朝貢した。
宋に朝貢した。
63年(475年)春2月、北魏に朝貢した。
秋8月、北魏に朝貢した。
秋9月、王は、3万の兵を率いて百済に侵攻し、王都の漢城(京畿道南漢山)を陥落させ、百済王の扶餘慶(第21代蓋鹵王)を惨殺し、男女8000人を捕虜にして連れ帰った。
64年(476年)春2月、北魏に朝貢した。
秋7月、北魏に朝貢した。
秋9月、北魏に朝貢した。
65年(477年)春2月、北魏に朝貢した。
秋9月、北魏に朝貢した。
66年(478年)、宋に朝貢した。
百済の燕信が、投降して来た。
67年(479年)春3月、北魏に朝貢した。
秋9月、北魏に朝貢した。
68年(480年)夏4月、南斉太祖の蕭道成が、高句麗王を『驃騎大将軍』に封じた。
王は餘奴たちを斉に派遣して朝貢させようとしたが、光州(山東省煙台市莱州市)の人が海上で餘奴たちを捕まえて魏の王宮に送った。
北魏の高文帝は詔をして、高句麗王を責めて言った。
『蕭道成は自ら君主を殺害し、長江の南で王位に就いている。朕は宋を再興して劉氏に王統を継がせるつもりである。
卿(高句麗王)は越境外交を行い、遠方の逆賊(南斉)と通じようとしている。藩臣(高句麗王)が守るべき義といえるのか。
一度の過ちで旧交を断つつもりはない。卿の使者は藩(高句麗)に帰す。心の広さを感じて反省し朕の教えに謹んで従い、国を安寧にし、動静を逐次報告せよ』