【第21代】文咨明王(羅雲)[21-1]

 文咨明王(明治好王ともいう。在位:492~519年)は、諱を羅雲という。長寿王の孫である。
 父は古鄒大加の助多だが、助多が夭折したので、長寿王は羅雲を宮中で養育して大孫とした。長寿王が在位79年で薨去したので王位を継いだ。

 元年(492年)春3月、北魏の高祖孝文帝(第7代皇帝)が遣使して、王を『使持節・都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王』に封じ、衣冠、服物、車旗の飾りを下賜した。
 また、我が国王に詔して、世継ぎを人質として入朝させるよう命じた。王は皇太子が病気だと偽って入朝を辞退した。朝貢使として派遣された従叔(父の従兄弟)の升干は、北魏の使者の指示通りに宮殿を訪問した。
 夏6月、北魏に朝貢した。
 秋8月、北魏に朝貢した。
 冬10月、北魏に朝貢した。

【注:493年、北魏が洛陽に遷都する】
【注:494年、夫餘が勿吉に滅ぼされる】

 3年(494年)春正月、北魏に朝貢した。
 春2月、夫餘王とその妻子が、国ごと投降して来た。
 秋7月、我が国軍が、新羅軍と薩水の河原(忠清北道塊山郡)で戦った。
 新羅は敗れ、犬牙城(忠清北道塊山郡)に立て籠もった。
 我が国の兵が城を囲んだが、百済が3000の兵を派遣して新羅を助けたので、我が軍は引き上げた。
 斉の皇帝が、王を『使持節・散騎常侍・都督営平二州諸軍事・征東大将軍・楽浪公』に封じた。
 北魏に朝貢した。

 4年(495年)春2月、北魏に朝貢した。
 ひどい旱魃にみまわれた。
 夏5月、北魏に朝貢した。
 秋7月、王は南方へ行幸し、海を見て帰還した。
 秋8月、出兵して百済の雉壌城を包囲した。
 百済は新羅に援軍を求めた。新羅王が将軍の徳智に派兵を命じたので、我が軍は引き上げた。

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