新石器時代の東アジア[4]

 黒陶は、新石器時代後期の山東龍山文化期に出現した紋様のない黒灰色の土器。紅陶、灰陶に次いで登場した。白色粘土を還元炎で焼成するため、土器の表面に炭素が付着して黒くなる。焼成後、土器の仰面に黒鉛を塗ったり、素焼きしたものを燻して黒くした土器もある。この時代には轆轤を使用しており、土器を肉薄に作ることが可能になった。卵殻陶と呼ばれる卵の殻のように薄い黒色土器は、黒陶の最高峰と評価されている。
 山東龍山文化を黒陶文化とも呼ぶ。以前は西の彩陶文化と東の黒陶文化が同時期に並立していたと考えられていたが、黄河中下流域で数多くの遺跡が調査された結果、全体的には彩陶文化から黒陶文化へ移行したことが分かった。
 渭河流域に仰韶文化、黄河中流域に大河村文化、黄河下流域に北辛文化、長江中流域に大渓文化、長江下流域に良渚文化、北方に紅山文化が形成され、土器様式の地域性が顕著になる。
 黄河中流域の仰韶文化では、B.C.4500年頃には環濠集落が発生しており、集団合葬墓も一般化していく。集団合葬墓は白骨化した遺体を一カ所に再埋葬した墓地のことで、家族墓でなく血族墓であることに特徴がある。中期後半には男系の血縁集団が社会の基礎単位になり、長屋式住居(ロングハウス)が出現した。
 黄河下流域の北辛文化は、中期後半に大汶口文化に移行する。農耕はアワが主体で、イネやムギはまだ普及していない。北辛文化は鼎(三本足の煮沸用土器)を発明したことで有名だが、大汶口黒陶などの特徴的な陶器や多種多様な酒器を生み出した。酒を熟成させる大甕である大口尊には朱色の記号が大書されており、原初的な漢字だと考える専門家もいる。

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