夏王朝は実在したか[4]

 二里頭文化一期時代、文化の中心は汝河流域にあった。それが二里頭文化二期時代に二里頭遺跡に移り、同時に城壁や宮殿が築造されているから、二里頭文化二期時代に二里頭遺跡が夏の首都となった可能性が高い。
 また、河南龍山文化時期には自然の地形に従って点在していた集落が、二里頭文化期には二里頭遺跡を中心に一定間隔で並ぶようになっている。この事実は、夏王朝の統治がかなり進んでいたことを物語っている。ただ、エリア内の文化的多様性を考えると、強力な中央集権体制というよりも、ゆるやかな政治連合体制だったと予想される。
 祭祀用の青銅器が急増したのも二里頭文化の時代だ。二期から本格的に鋳造されるようになったが、三期になると青銅彝器という祭祀用の礼器が出現する。そのなかでも有名なのが酒を注ぐ三足容器の爵だ。4期には彝器のほか、鼎などの土器が青銅で造られている。
 『二里頭遺跡』は、河南省偃師市二里頭鎮にある夏王朝の都とされる遺跡で、二里頭文化の指標となっている。年代はB.C.1800年頃~B.C.1600年頃とされ、二里頭文化一期・二里頭文化二期・二里頭文化三期・二里頭文化四期の4期に分類されている。
 二里頭文化一期に大規模遺跡はないが、二里頭文化二期には宮殿が建設されている。東西50m、南北150mで、回廊の中は三区に分かれていて、墓が5基ある。宮殿の北側には祭祀区があり、円形の壇と方形の墠が築かれていた。また、南側には青銅器を鋳造していた工房区がある。
 二里頭文化三期に入ると、東西300m、南北350mの城壁が築かれた。この城壁は都市全体を囲うものではなく、中心区の周囲に造られたようだ。
 宮殿は、東西110m、南北100mの一号宮殿と、東西60m、南北70mの二号宮殿が発見されている。両宮殿は150mほど離れており、どちらにも墓があることから、政務を執るための場所ではなく、宗教施設ではないかと考えられている。回廊内の墓は王墓とするほどの規模ではなく、二里頭遺跡全体でも大型墓は発見されていない。
 青銅彝器が量産されるようになるのも三期。祭祀場では卜骨による占いも行われていた。
二里頭文化四期は衰退期で、最後には廃絶してしまう。これは殷による支配が始まったことが原因と考えられている。
 また、『新砦遺跡』は、新石器時代後期末~夏王朝初期の年代とされる城址遺跡で、新砦文化の指標遺跡となっている。河南龍山文化の王湾三期文化と二里頭文化の二里頭一期文化を繋ぐ役割を担ったと考えられている。
 総面積は100万㎡で城壁の内外に濠が掘られている。外濠は東西1500m。城内中心部には東西40m、南北15mの基壇が築かれており、二里頭文化様式の青銅器や土器が出土した。

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