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三国史記高句麗本紀

【第20代】長寿王(巨連)[20-1]

長寿王(在位:413~491年)は、諱を巨連(もしくは璉)という。広開土王の長男である。体貌は魁傑で、士気は豪邁だった。広開土王の18年(409年)に太子となり、22年(413年)に王が薨去したため即位した。 元年(413年)、王は長史の高...
三国史記高句麗本紀

【第19代】広開土王(談徳)[19-2]

14年(405年)春正月、慕容熙が、遼東城(遼寧省遼陽市)を攻撃した。 落城寸前のとき、慕容熙は将兵たちに入城しないよう厳命した。陥落したあとで王と王后が輿に乗って入場するためであった。 しかし、攻撃がやんでいる間に城の守備兵たちが体制を立...
三国史記高句麗本紀

【第19代】広開土王(談徳)[19-1]

広開土王(正式諡号は国岡上広開土境平安好太王。在位:392~413年)は、諱を談徳という。故国壌王の子である。生まれながら勇敢で偉人の風格があり、崇高な志を持っていた。故国壌王の3年(386年)に太子となり、9年(386年)に王が薨去したた...
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【第18代】故国壌王(伊連)

故国壌王(在位:384~392年)は、諱を伊連(もしくは於只支)という。小獣林王の弟である。小獣林王は在位14年で薨去したが、跡継ぎがいなかったため王弟の伊連が即位した。 2年(385年)夏6月、王は4万の兵で遼東郡を攻撃した。 後燕(五胡...
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【第17代】小獣林王(丘夫)

小獣林王(小解朱婁王ともいう。在位:371~384年)は、諱を丘夫という。故国原王の子である。背が高く雄大な計略を持っていた。故国原王の25年(355年)に太子となり、41年(371年)に王が薨去したため即位した。 2年(372年)夏6月、...
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【第16代】故国原王(斯由)[16-3]

13年(343年)春2月、王は王弟を前燕に派遣した。 王弟は臣下と称して朝貢し、数え切れないくらい多くの貴重な宝物を献上した。 美川王の屍は返されたが、王母は依然人質とされた。 秋7月、王は住まいを平壌の東黄城に移した。 東晋に遣使して朝貢...
三国史記高句麗本紀

【第16代】故国原王(斯由)[16-2]

高句麗への道は二つあり、北道は平坦で広く、南道は険しくて狭かった。そのため、多くの者が北からの進攻を希望したが、慕容翰が言った。「敵は常識的に考え、大軍は北道から来ると判断し、北の守備を厚く南の守備を薄くするでしょう。王(慕容皝)は精鋭を率...
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【第16代】故国原王(斯由)[16-1]

故国原王(国岡上王ともいう。在位:331~371年)は、諱を斯由(もしくは釗)という。美川王15年(314年)に太子となり、32年(331年)春、王が薨去したため即位した。 2年(332年)春2月、王は卒本へ行幸して始祖廟を祭った。このとき...
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【第15代】美川王(乙弗)[15-4]

宇文部の長である悉独官が言った。「高句麗と段部が退いても、我が国だけで棘城を奪い取ってみせる」 慕容廆は、息子の慕容皝と長史の斐巍に精兵を率いさせて先鋒とし、自分は主力を率いて後に続いた。悉独官は大敗し、なんとか自分だけ逃げることができた。...
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【第15代】美川王(乙弗)[15-3]

3年(302年)秋9月、王は3万の兵を率いて玄莵郡を攻撃し、8000人の捕虜を得て平壌に移した。 12年(311年)秋8月、王は将軍を派遣し、遼東郡の西安平県を併合した。 14年(313年)冬10月、王は楽浪郡に侵入し、男女2000余人を捕...