三国史記高句麗本紀【第15代】美川王(乙弗)[15-2] このとき、国相の倉助利が王(烽上王)を廃そうとしていた。倉助利は、北部の祖弗や東部の蕭友たちを派遣して、山野で乙弗を捜索させた。 沸流の川岸に来たとき、ひとりの男が舟上にいるのを見つけた。 憔悴しきっている様子だが、動きが尋常でなかった。蕭... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第15代】美川王(乙弗)[15-1] 美川王(好壌王ともいう。在位:300~331年)は、諱を乙弗(もしくは憂弗)という。西川王の王子だった古鄒加の咄固の子(西川王の孫)である。 さきの烽上王は、弟の咄固を異心ありと疑って殺害させた。乙弗は殺されるのを恐れて逃げた。 乙弗は水室... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第14代】烽上王(相夫)[14-3] 秋8月、王は15歳以上の男女を徴発して王宮の修営に従事させた。食が乏しいところに労役まで課されたため、民が流浪してしまった。 倉助利が王を諫めた。「天災が続いて穀物が実らず、民は生きるすべを失くしております。壮健な者は四方へ流離し、年寄りや... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第14代】烽上王(相夫)[14-2] 3年(294年)秋9月、国相の尚婁が逝去し、南部(高句麗五部のひとつ)の大使者の倉助利を国相に任命し、大主簿の官位を授けた。 5年(296年)秋8月、慕容廆が侵入した。 故国原で西川王の陵墓を見つけ、家来に墓をあばかせた。すると、墓をあばい... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第14代】烽上王(相夫)[14-1] 烽上王(雉葛王ともいう。在位:292~300年)は、諱を相夫(もしくは歃矢婁)という。西川王の長子である。幼いときから驕り高ぶって身勝手な振る舞いを繰り返し、疑い深かった。西川王の23年(292年)に王が薨去し、太子の相夫が王位に就いた。 ... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第13代】西川王(薬慮)[13-2] 11年(280年)冬10月、粛慎が侵入して辺境の民を殺した。 王が群臣に言った。「寡人はたいした能力もないのに、誤って国の大元である王位を継いだ。しかし、寡人の徳では民を落ち着かせて従わせることができないし、周辺国を畏れさせることもできない... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第13代】西川王(薬慮)[13-1] 西川王(西壌王ともいう。在位:270~292年)は、諱を薬慮(もしくは若友)という。中川王の第二子である。聡明、穎悟で仁があり、民は王を敬愛してやまなかった。 中川王の8年(255年)に王太子となり、23年(270年)冬10月に王が薨去した... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第12代】中川王(然弗)[12-2] その後、王が箕丘で田猟して戻ると、貫那婦人が革袋を抱えて迎えに出てきた。婦人は泣きながら言った。「王后様が私をこの中に入れて海に捨てようとされました。幸いにも大王がわずかな命をお与えくださり、妾を実家に戻していただけるのでしたら、これ以上大... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第12代】中川王(然弗)[12-1] 中川王(中壌王ともいう。在位:248~270年)は、諱を然弗という。東川王の子である。きりりとして爽やかな印象の容貌を持ち、知略に優れていた。東川王の17年(243年)に立太子され、22年(248年)の秋9月、先王の薨去によって即位した。 ... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第11代】東川王(優位居)[11-4] 王は帰国すると論功行賞を行い、密友と劉屋句を第一とした。 密友には巨谷と青木谷を、劉屋句には鴨緑江の杜訥河原を領地として与えた。死んだ紐由には大使者の官位を追贈し、跡継ぎの多優を大使者に昇格させた。 この戦役で、魏の将軍は粛慎の南境まで進み... 2025.04.26三国史記高句麗本紀