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三国史記高句麗本紀

【第6代】大祖大王(宮)[6-4]

69年(121年)春、後漢の幽州(中国河北省北部から満州南部一帯)刺史(長官)の馮煥、玄莵郡太守の姚光、遼東郡太守の蔡諷たちの将兵が侵入して進撃し、穢貊の頭目を殺し、兵馬財物をことごとく獲得した。 そこで王は、弟の遂成を派遣し、2000余り...
三国史記高句麗本紀

【第6代】大祖大王(宮)[6-3]

53年(103年)春正月、夫餘国の使者が来て虎を献上した。1丈2尺もある大虎で、明るく輝かんばかりの毛並みだったが、尻尾がなかった。 王は将軍を派遣して遼東郡の6県を略奪した。後漢の遼東太守の耿虁が出兵して抵抗したため、王の軍は大敗を喫した...
三国史記高句麗本紀

【第6代】大祖大王(宮)[6-2]

16年(68年)秋8月、曷思王の孫の都頭が国ごと投降してきたので、王は都頭に于台(10等中第6の官位)の地位を与えた。 冬10月、しばしば雷が鳴った。 20年(72年)春2月、王は貫那部(高句麗五族のひとつ)出身の沛者(10等中第3の官位)...
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【第6代】大祖大王(宮)[6-1]

大祖大王(国祖王ともいう。在位:53~146年)の諱は宮で、幼名を於漱といった。古鄒加(10等中第4の官位)の再思は、第2代瑠璃明王の子であったが、その再思の子が大祖大王である。王母は夫餘人であった。 慕本王の崩御後、不肖の太子には国政を任...
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【第5代】慕本王(解憂)

慕本王(在位:48~53年)の諱は、解憂(もしくは解愛婁)という。大武神王の嫡子である。閔中王の崩御により王位を継いだが、粗暴で思いやりがなく国事を疎かにしたので、民はみな王を恨んだ。 元年(48年)秋8月、都が大雨に見舞われ、二十数カ所で...
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【第4代】閔中王(解色朱)

閔中王(在位:44~48年)の諱は、解色朱という。大武神の弟である。大武神王の崩御時、太子が幼少で政務を執ることができなかったので、国人に推戴されて高句麗王として立った。 元年(44年)冬11月、即位の大赦を行った。 2年(45年)春3月、...
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【第3代】大武神王(無恤)[3-9]

冬11月、好童が自ら命を絶った。 好童は曷思王の孫娘にあたる次妃から産まれた。王はその容姿端麗なことを愛し、好童と名付けた。 嫡男である自分の子が太子の座を好童に奪われることを心配した王妃が、王に讒言して言った。「好童は私への態度が不遜です...
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【第3代】大武神王(無恤)[3-8]

話を聞いた鄒㪍素は、3人を官舎に招き入れ、ともに座って言った。「人は過ちを犯すもの。それを悔い改めるなら、それに勝る善行はありません」 鄒㪍素は3人の友人となった。仇都たちは恥を知り、以後3人が悪行に及ぶことはなかった。 王はこの話を聞き「...
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【第3代】大武神王(無恤)[3-7]

贈り物を見た遼東郡の将軍が言った。「城内には水源があり、すぐには落とすことができない」そして、返礼して言った。『我が皇帝は、私を信頼され、官軍を出撃させて大王の罪を問わせましたが、国境で数旬がたったにもかかわらず、いまだに要領を得ません。い...
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【第3代】大武神王(無恤)[3-6]

左輔の乙豆智が言った。「『小敵の強がりは大敵の擒』と申します。大王の軍事力を考えますに、漢兵の多さとは比較するまでもありません。計略を用いて討伐するのがよいかと存じます。力に頼っても勝ち目はございませぬ」 王が尋ねた。「計略で討つとは、どう...