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三国史記高句麗本紀

【第3代】大武神王(無恤)[3-5]

8年(25年)春2月、乙豆智を右輔(右大臣)に任命し、国政と軍事を任せた。 9年(26年)冬10月、王は蓋馬国(鴨緑江上流域にあった小国)に親征した。蓋馬王は殺されたが、民は安寧で、奴隷にされることも私財を没収されることもなかった。その地が...
三国史記高句麗本紀

【第3代】大武神王(無恤)[3-4]

王は戦死者を篤く弔い、自ら負傷者を慰問し、人々をねぎらった。そのため、国民は王の徳義に感じ入り、国事に命を捧げてもかまわないと思った。 春3月、骨句川の神馬が夫餘の馬100匹を引き連れて、鶴盤嶺の麓にある車廻谷に戻ってきた。 夏4月、帯素王...
三国史記高句麗本紀

【第3代】大武神王(無恤)[3-3]

5年(22年)春2月、王の軍は夫餘の南まで進んだ。湿地が広がっていたので、固い土地を選んで宿営した。兵士たちは馬から鞍を下ろしてゆっくり休み、警戒を怠った。 それを知った夫餘王は、全軍に出撃命令を出し、高句麗軍の不備をついて急襲させようとし...
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【第3代】大武神王(無恤)[3-2]

4年(21年)冬12月、王は夫餘を討つため出兵し、沸流水(渾江)に陣を張った。 王が川辺を望み見ると、少女が鼎(煮炊き用の三足器)で遊んでいるように見えた。近寄ってみると、鼎だけが置かれていた。これで炊事をすると、火を使う必要がなかった。鼎...
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【第3代】大武神王(無恤)[3-1]

大武神王(大解朱留王ともいう。在位:18~44年)は、諱を無恤という。第2代瑠璃明王の第3子である。生まれつき聡明で、成長して雄傑、国家の大計を有していた。瑠璃明王33年甲戌の年に11歳で太子となり、瑠璃明王が薨去したため、同年に即位した。...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-10]

しかし、王莽は聞き入れず、詔を発して荘尤に高句麗を討たせた。荘尤は将軍の延丕を誘き出して殺害し、その首を都の長安(陝西省西安市)に送った。王莽は大いに喜んだ。そして、高句麗の王を『下句麗侯』に格下げし、国中に周知徹底させた。屈辱を受けた高句...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-9]

夫餘王は報告を聞いたが、累卵の意味が分からず、下々の者にまで尋ねた。すると、ひとりの老婆が大王に言った。「累卵とは危険のことです。それを割らないというのは、安泰を意味します。王子の言葉の意味は次のようなものでしょう。『大王は自分の危うい状況...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-8]

そうして礪津の東原へ行き、槍を地面に突き刺し、馬を走らせてそこへ飛び込み、槍を貫かせて死んだ。 享年21歳。葬儀は太子の礼葬に則って行われ、遺体は東原に埋葬され、廟が建てられた。その地を槍原とした。 秋8月、夫餘の帯素王が使者を遣わし、王を...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-7]

春3月、黄龍王は使者を送り解明との面会を求めた。解明が行こうとすると、ある人が諫めて言った。「いま隣国が故もなくただ会いたいと言ってきましたが、その真意がどこにあるのか測りかねます」 太子が言った。「天に俺を殺すつもりがないなら、黄龍王は何...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-6]

22年(3年)冬10月、国内(中国吉林省集安市)に遷都し、尉那厳城を築いた。冬12月、王は質山の北側で田猟し、5日たっても戻らなかった。宰相の陜父が諫めて言った。「都を移してから日が浅いため、民はまだ落ち着いておりません。政に専念して遊びを...