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三国史記高句麗本紀

【第2代】瑠璃明王(類利)[2-5]

秋9月、王は病に罹った。 巫女が告げた。「これは託利と斯卑の祟りでございます」 王が巫女に謝らせると、病は癒えた。 20年(A.D.1年)春正月、皇太子の都切が逝去した。 21年(2年)春3月、お供え物の豚が逃げた。王は犠獣を管理している薛...
三国史記高句麗本紀

【第2代】瑠璃明王(類利)[2-4]

扶芬奴は兵を率いて入城した。鮮卑はこれを望み見て驚愕し、大急ぎで引き返した。扶芬奴は城門で立ち塞がって戦い、多くの敵軍を斬り捨てた。王軍は旗を立て軍太鼓を打ち鳴らしながら進軍した。 前後を取られた鮮卑軍は作戦に窮し、高句麗軍の力に屈して降伏...
三国史記高句麗本紀

【第2代】瑠璃明王(類利)[2-3]

11年(B.C.9年)夏4月、王は群臣に言った。「鮮卑族(モンゴル高原から満州に拠った遊牧狩猟民族)は領土が険峻なのをよいことに我が国と和睦しようとしない。利ありとみれば我が国へ侵入し、不利となれば墨守して出てこない。国患とはまさにこのこと...
三国史記高句麗本紀

【第2代】瑠璃明王(類利)[2-2]

2年(B.C.18年)秋7月、多勿侯松譲の娘を王妃とした。 冬10月、百済の始祖である温祚王が即位した。 3年(B.C.17年)秋7月、鶻川に離宮を造営した。 冬10月、王妃の松氏が死去した。 王はさらに鶻川国出身の禾姫と漢人の雉姫を娶って...
三国史記高句麗本紀

【第2代】瑠璃明王(類利)[2-1]

瑠璃明王(在位:B.C.19~A.D.18年)が即位した。諱は類利もしくは孺留。朱蒙の長子で、母は礼氏。朱蒙が夫餘にいたときに結婚して懐妊したが、産まれたのは朱蒙が夫餘を出立した後だった。名を類利とした。 幼い頃、道で雀を撃って遊んでいたと...
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【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-5]

2年(B.C.36年)夏6月、松譲は朱蒙に降参した。朱蒙は松譲の旧領を多勿都と命名し、松譲を領主に任命した。旧土を復興させることを高句麗語で多忽というので、この名前にした。 4年(B.C.34年)秋7月、城郭を造って宮殿を設けた。 冬10月...
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【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-4]

朱蒙たちは卒本川(中国遼寧省丹東市)に着いた。土地が肥えていて地形が険しく守りやすかったので、ここに都を置くことに決めた。 しかし、宮城を造営する時間がなかったので、沸流川(渾江)の畔に庵を編んだ。国号を高句麗とし、姓を高氏とした。 ある本...
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【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-3]

王子や家臣が朱蒙の暗殺を謀った。 柳花がこの陰謀を事前に察知し、息子の朱蒙に知らせた。「夫餘人がそなたを亡き者にしようとしています。そなたほどの才覚があれば、どこへ行っても暮らしてゆけるはずです。夫餘に留まって辱めを受けるより、遠いところへ...
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【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-2]

金蛙はこの話を聞いて不思議に思い、娘をその家の中に閉じ込めてみた。すると日光が娘を照らした。娘が移動すると、光は娘を追いかけて照らした。そうこうするうちに娘は身ごもり、五升にもなる大きな卵を産んだ。 金蛙は卵を捨てたが、犬も豚も卵を食べなか...
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【始祖】東明聖王(朱蒙)[1-1]

高句麗の始祖である東明聖王(在位:B.C.37~B.C.19年)は、姓を高、名を朱蒙(もしくは鄒牟、もしくは衆解)といった。 夫餘(現在の中国吉林省にあった国。紀元前1世紀頃~494年)王の解夫婁は、老年になっても跡継ぎができず、あるとき外...