広開土王碑文を読む広開土王碑文を読む[3] 【碑文】 □□□命駕、巡車南下。路由夫餘奄利大水。王臨津言曰、我是皇天之子、母河伯女郎、鄒牟王、爲我連葭浮龜。應聲即爲、連葭浮龜、然後造渡。於沸流谷忽本西城山上、而建都焉。【訳文】 (夫餘を離れた鄒牟王は)馬車を用意させ、(それに乗って一行... 2025.04.26広開土王碑文を読む
広開土王碑文を読む広開土王碑文を読む[2] 【碑文】惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘、天帝之子、母河伯女郎。剖卵、降世、生子。有聖□□□。【訳文】 (高句麗は)むかし初代の鄒牟王が基を創った。(鄒牟王は)北夫餘の出で、天帝の子であり、母は河神の娘である。卵を割って現世に降りて誕生し... 2025.04.26広開土王碑文を読む
広開土王碑文を読む広開土王碑文を読む[1] 広開土王碑は、好太王碑とも呼ばれている石碑。414年に高句麗の長寿王(394~491年)が先王であり父でもある広開土王(375~412年)のために立てた。 石碑の存在は昔から知られていたが、碑文の内容が判明したのは1882年のこと。知県の陳... 2025.04.26広開土王碑文を読む
歴史日本から渡来した昔氏の始祖伝説[下] その童子は脱解と名乗り、ふたりの奴婢を連れ、杖をつきながら吐含山に登った。そのあと山頂で石塚を築いて7日間暮らし、下を眺めて城中で住むにふさわしい場所を探した。 そして、三日月のかたちをした霊峰を見つけた。そこは運気が上昇し続ける地勢だった... 2025.04.26歴史
歴史日本から渡来した昔氏の始祖伝説[上] 『三国遺事』では、日本と深く関わる昔氏の始祖伝説を、次のように語っている。 第二代南解王の時代、駕洛国の領海に船があった。 首露王と臣民は大騒ぎで迎えたが、係留しようとすると船は走り去り、鶏林の東の下西知村阿珍浦に入港した。 浜辺に阿珍義先... 2025.04.26歴史
歴史『三国遺事』にみえる新羅の建国神話 『三国遺事』(13世紀末に高麗の僧・一然が記した私撰の史書)では、新羅の始祖伝説が次のように語られている。 西漢(前漢)地節元年(紀元前69年)3月1日、いまの六部(閼川の楊山村、突山の高墟村、觜山の珍支村、茂山の大樹村、金山の加利村、明活... 2025.04.26歴史
歴史斯盧から新羅へ 新羅は、朝鮮半島を初めて統一した王朝で、935年に滅ぶまで600年近く存続した。現在の朝鮮民族は、新羅によって形成されたと言っても過言ではない。 古代新羅があった韓国東部(現在の慶尚北道南部と慶尚南道北部)は、歴代中国王朝から『辰韓』と呼ば... 2025.04.26歴史
歴史百済の建国年 百済の建国年は、よくわからない。 『三国史記』百済本紀には、紀元前年、高句麗を興した東明聖王(朱蒙、鄒牟)の子である温祚王が、漢城(京畿道)に移って百済を建国したと記されている。 しかし、中国の史書には4世紀に到るまで『馬韓』としか記されて... 2025.04.26歴史
歴史百済揺籃の地 百済の地は、もともと馬韓といった。 四世紀中頃までの朝鮮半島は、西から、馬韓、弁韓(弁辰)、辰韓に分かれていた。 そのうち馬韓は、おおよそ現在の京畿道、忠清北道、忠清南道、全羅北道、全羅南道にあたる。総人口は十万余戸。五十数ヵ国に別れ、各国... 2025.04.26歴史
歴史高句麗建国時の状況 高句麗族は、渾江流域の五女山(中国遼寧省桓仁)に卒本城を築いて都としていた。五女山は天然の要害で、遠くから眺めると、岩で作ったシルクハットのように見える。上部が平らで、築城しやすく、防衛にも適していた。 彼らが五女山に住みはじめた時期はよく... 2025.04.26歴史