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三国史記高句麗本紀

【第21代】文咨明王(羅雲)[21-4]

18年(509年)夏5月、北魏に朝貢した。 19年(510年)夏閏6月、北魏に朝貢した。 冬11月、北魏に朝貢した。 21年(512年)春3月、梁に朝貢した。 夏5月、北魏に朝貢した。 秋9月、百済に侵入し、加弗城と円山城を陥落させ、男女千...
三国史記高句麗本紀

【第21代】文咨明王(羅雲)[21-3]

12年(503年)冬11月、百済の達卒の優永が兵5000を率いて我が国の水谷城(黄海道新渓郡)を攻撃した。 13年(504年)夏4月、北魏に朝貢した。 北魏の世宗宣武帝は、東堂で我が国使者の芮悉弗を引見した。 芮悉弗が申し開きをした。「我が...
三国史記高句麗本紀

【第21代】文咨明王(羅雲)[21-2]

5年(496年)、斉の明帝が、王を『車騎将軍』に封じた。斉に朝貢した。 秋7月、派兵して新羅の牛山城を攻撃した。新羅軍が泥河に出撃したため、我が軍は敗北した。 6年(497年)秋8月、派兵して新羅の牛山城を攻めて陥落させた。 7年(498年...
三国史記高句麗本紀

【第21代】文咨明王(羅雲)[21-1]

文咨明王(明治好王ともいう。在位:492~519年)は、諱を羅雲という。長寿王の孫である。 父は古鄒大加の助多だが、助多が夭折したので、長寿王は羅雲を宮中で養育して大孫とした。長寿王が在位79年で薨去したので王位を継いだ。 元年(492年)...
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【第20代】長寿王(巨連)[20-7]

69年(481年)、南斉に朝貢した。 72年(484年)冬10月、北魏に朝貢した。 このとき、魏の人は高句麗が強国だとして、朝貢国の使者に提供する館を配するとき、南斉を第一とし我が国をその次とした。 73年(485年)夏5月、北魏に朝貢した...
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【第20代】長寿王(巨連)[20-6]

60年(472年)春2月、北魏に朝貢した。秋7月、北魏に朝貢した。このときから献上する朝貢品が2倍になり、下賜品がいくばくか増えた。 61年(473年)春2月、北魏に朝貢した。 秋8月、北魏に朝貢した。 62年(474年)春2月、北魏に朝貢...
三国史記高句麗本紀

【第20代】長寿王(巨連)[20-5]

54年(466年)春3月、北魏に朝貢した。 北魏の文明太后が高句麗王に対して、顕祖献文帝の後宮が未整備なのを理由に、王女を差し出すよう命じた。 王は、上奏文を奉って報告した。『娘は皆嫁いでいるので、王弟の娘を送ることで答えにさせていただきた...
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【第20代】長寿王(巨連)[20-4]

王白駒たちは、7000あまりの兵で孫漱と高仇を急襲し、高仇を殺し孫漱を生け捕りにして帰国した。王は、王白駒たちを殺そうと思い、宋に遣使して王白駒たちを高句麗へ送るよう求めた。 宋の太祖は、遠国の高句麗が宋の命令に従わないことを不満に思い、王...
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【第20代】長寿王(巨連)[20-3]

北魏軍の来襲に備え、婦人たちに甲冑を着させて内側に配し、陽伊たちは精鋭軍を率いて外側を行軍した。葛慮と孟光は、騎馬隊を率いて殿を勤めた。行列は前後80余里になった。 太武帝は、散騎常侍の封撥を高句麗に派遣し、王に馮弘を北魏へ送るよう命じた。...
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【第20代】長寿王(巨連)[20-2]

23年(435年)夏6月、北魏に朝貢し、北魏皇帝の諱表を所望した(高句麗が北魏の臣下になることを意味する)。 世祖太武帝(第3代皇帝)はその忠誠心を喜び、皇帝の系譜や諱を書き写して授与した。 太武帝は、員外散騎侍郎の李敖を派遣して、王を『都...