三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-7] 69年(481年)、南斉に朝貢した。 72年(484年)冬10月、北魏に朝貢した。 このとき、魏の人は高句麗が強国だとして、朝貢国の使者に提供する館を配するとき、南斉を第一とし我が国をその次とした。 73年(485年)夏5月、北魏に朝貢した... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-6] 60年(472年)春2月、北魏に朝貢した。秋7月、北魏に朝貢した。このときから献上する朝貢品が2倍になり、下賜品がいくばくか増えた。 61年(473年)春2月、北魏に朝貢した。 秋8月、北魏に朝貢した。 62年(474年)春2月、北魏に朝貢... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-5] 54年(466年)春3月、北魏に朝貢した。 北魏の文明太后が高句麗王に対して、顕祖献文帝の後宮が未整備なのを理由に、王女を差し出すよう命じた。 王は、上奏文を奉って報告した。『娘は皆嫁いでいるので、王弟の娘を送ることで答えにさせていただきた... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-4] 王白駒たちは、7000あまりの兵で孫漱と高仇を急襲し、高仇を殺し孫漱を生け捕りにして帰国した。王は、王白駒たちを殺そうと思い、宋に遣使して王白駒たちを高句麗へ送るよう求めた。 宋の太祖は、遠国の高句麗が宋の命令に従わないことを不満に思い、王... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-3] 北魏軍の来襲に備え、婦人たちに甲冑を着させて内側に配し、陽伊たちは精鋭軍を率いて外側を行軍した。葛慮と孟光は、騎馬隊を率いて殿を勤めた。行列は前後80余里になった。 太武帝は、散騎常侍の封撥を高句麗に派遣し、王に馮弘を北魏へ送るよう命じた。... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-2] 23年(435年)夏6月、北魏に朝貢し、北魏皇帝の諱表を所望した(高句麗が北魏の臣下になることを意味する)。 世祖太武帝(第3代皇帝)はその忠誠心を喜び、皇帝の系譜や諱を書き写して授与した。 太武帝は、員外散騎侍郎の李敖を派遣して、王を『都... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第20代】長寿王(巨連)[20-1] 長寿王(在位:413~491年)は、諱を巨連(もしくは璉)という。広開土王の長男である。体貌は魁傑で、士気は豪邁だった。広開土王の18年(409年)に太子となり、22年(413年)に王が薨去したため即位した。 元年(413年)、王は長史の高... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第19代】広開土王(談徳)[19-2] 14年(405年)春正月、慕容熙が、遼東城(遼寧省遼陽市)を攻撃した。 落城寸前のとき、慕容熙は将兵たちに入城しないよう厳命した。陥落したあとで王と王后が輿に乗って入場するためであった。 しかし、攻撃がやんでいる間に城の守備兵たちが体制を立... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第19代】広開土王(談徳)[19-1] 広開土王(正式諡号は国岡上広開土境平安好太王。在位:392~413年)は、諱を談徳という。故国壌王の子である。生まれながら勇敢で偉人の風格があり、崇高な志を持っていた。故国壌王の3年(386年)に太子となり、9年(386年)に王が薨去したた... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第18代】故国壌王(伊連) 故国壌王(在位:384~392年)は、諱を伊連(もしくは於只支)という。小獣林王の弟である。小獣林王は在位14年で薨去したが、跡継ぎがいなかったため王弟の伊連が即位した。 2年(385年)夏6月、王は4万の兵で遼東郡を攻撃した。 後燕(五胡... 2025.04.26三国史記高句麗本紀