三国史記高句麗本紀【第17代】小獣林王(丘夫) 小獣林王(小解朱婁王ともいう。在位:371~384年)は、諱を丘夫という。故国原王の子である。背が高く雄大な計略を持っていた。故国原王の25年(355年)に太子となり、41年(371年)に王が薨去したため即位した。 2年(372年)夏6月、... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第16代】故国原王(斯由)[16-3] 13年(343年)春2月、王は王弟を前燕に派遣した。 王弟は臣下と称して朝貢し、数え切れないくらい多くの貴重な宝物を献上した。 美川王の屍は返されたが、王母は依然人質とされた。 秋7月、王は住まいを平壌の東黄城に移した。 東晋に遣使して朝貢... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第16代】故国原王(斯由)[16-2] 高句麗への道は二つあり、北道は平坦で広く、南道は険しくて狭かった。そのため、多くの者が北からの進攻を希望したが、慕容翰が言った。「敵は常識的に考え、大軍は北道から来ると判断し、北の守備を厚く南の守備を薄くするでしょう。王(慕容皝)は精鋭を率... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第16代】故国原王(斯由)[16-1] 故国原王(国岡上王ともいう。在位:331~371年)は、諱を斯由(もしくは釗)という。美川王15年(314年)に太子となり、32年(331年)春、王が薨去したため即位した。 2年(332年)春2月、王は卒本へ行幸して始祖廟を祭った。このとき... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第15代】美川王(乙弗)[15-4] 宇文部の長である悉独官が言った。「高句麗と段部が退いても、我が国だけで棘城を奪い取ってみせる」 慕容廆は、息子の慕容皝と長史の斐巍に精兵を率いさせて先鋒とし、自分は主力を率いて後に続いた。悉独官は大敗し、なんとか自分だけ逃げることができた。... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第15代】美川王(乙弗)[15-3] 3年(302年)秋9月、王は3万の兵を率いて玄莵郡を攻撃し、8000人の捕虜を得て平壌に移した。 12年(311年)秋8月、王は将軍を派遣し、遼東郡の西安平県を併合した。 14年(313年)冬10月、王は楽浪郡に侵入し、男女2000余人を捕... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第15代】美川王(乙弗)[15-2] このとき、国相の倉助利が王(烽上王)を廃そうとしていた。倉助利は、北部の祖弗や東部の蕭友たちを派遣して、山野で乙弗を捜索させた。 沸流の川岸に来たとき、ひとりの男が舟上にいるのを見つけた。 憔悴しきっている様子だが、動きが尋常でなかった。蕭... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第15代】美川王(乙弗)[15-1] 美川王(好壌王ともいう。在位:300~331年)は、諱を乙弗(もしくは憂弗)という。西川王の王子だった古鄒加の咄固の子(西川王の孫)である。 さきの烽上王は、弟の咄固を異心ありと疑って殺害させた。乙弗は殺されるのを恐れて逃げた。 乙弗は水室... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第14代】烽上王(相夫)[14-3] 秋8月、王は15歳以上の男女を徴発して王宮の修営に従事させた。食が乏しいところに労役まで課されたため、民が流浪してしまった。 倉助利が王を諫めた。「天災が続いて穀物が実らず、民は生きるすべを失くしております。壮健な者は四方へ流離し、年寄りや... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第14代】烽上王(相夫)[14-2] 3年(294年)秋9月、国相の尚婁が逝去し、南部(高句麗五部のひとつ)の大使者の倉助利を国相に任命し、大主簿の官位を授けた。 5年(296年)秋8月、慕容廆が侵入した。 故国原で西川王の陵墓を見つけ、家来に墓をあばかせた。すると、墓をあばい... 2025.04.26三国史記高句麗本紀