三国史記高句麗本紀

三国史記高句麗本紀

【第10代】山上王(延優)[10-4]

2年(198年)春2月、丸都城(吉林省集安市)を築いた。 夏4月、国内の二罪(死刑)以下の罪人を赦した。 3年(199年)秋9月、王は質山の南で田猟した。 7年(203年)春3月、王は子がなかったので、山川の神々に祈りを捧げる儀式を行った。...
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【第10代】山上王(延優)[10-3]

王は複雑な気持ちで罽須を王宮に招いた。 王は罽須に家人の礼で会い、こう言った。「発歧は異国に兵を求めて祖国に侵攻した。その罪はあまりにも大きい。おぬしは賊軍に勝ったが、発歧を許して殺さなかった。 それでじゅうぶんなのに、あやつが自死すると慟...
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【第10代】山上王(延優)[10-2]

翌日の早朝、王后は王の遺命だと嘘をつき、群臣に命じて延優を即位させた。これを聞いた発歧はおおいに怒り、兵で王宮を包囲し、叫んで言った。「兄が死んだらすぐ下の弟が継ぐ。それが礼というものだ。それなのに、おまえは長幼を無視して王位を簒奪した。こ...
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【第10代】山上王(延優)[10-1]

山上王(在位:197~227年)は、諱を延優(もしくは位宮)という。故国川王の弟で、太祖の曾孫にあたる。王は宮(大祖大王)にそっくりだった。高句麗語で似ていることを位と言ったので名前を位宮とした。故国川王に子がなかったので、延優が王位を継承...
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【第9代】故国川王(男武)[9-3]

冬10月、王が晏留に言った。「そなたの一言がなければ、乙巴素に出会ってともに国を治めることはなかった。いま業績が上がっているのは、そちの功績によるものじゃ」 王は晏留に大使者の官位を授けた。 16年(194年)秋7月、霜が下り、穀物が枯れ、...
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【第9代】故国川王(男武)[9-2]

13年(191年)夏4月、左可慮たちは兵を集めて王都を攻めた。王は畿内の兵馬を徴集して反乱軍を平定した。ついに王令が発布された。『近頃、官位の昇級は情実によってなされ、人徳によっていない。民に甚大な影響を与え、我が王家すら動揺した。これらは...
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【第9代】故国川王(男武)[9-1]

故国川王(故国襄王ともいう。在位:179~197年)は、諱を男武(もしくは伊夷謨)という。新大王伯固の第二子である。伯固が崩御すると、家臣たちは長男の抜奇を不肖者として退け、伊夷謨を共立して王とした。 後漢の献帝の建安年間(196~220年...
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【第8代】新大王(伯固)[8-3]

8年(172年)冬11月、後漢が高句麗へ大軍を送った。攻めるべきか守るべきか、王は群臣に諮問した。家臣たちは討議して進言した。「漢兵は大軍を頼みにして我が軍をなめてかかっております。もし出撃しなければ、漢軍は我が軍を臆病だと見なし、何度でも...
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【第8代】新大王(伯固)[8-2]

明臨答夫による天難が起こったとき、次大王の太子である鄒安は逃げ隠れたが、嗣いだ王が大赦令を発布したと聞き、すぐに王宮の門前に行って告げて言った。「さきに国に災禍があったとき、臣は死ぬことができず、山谷に逃げてしまいましたが、いま王による大赦...
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【第8代】新大王(伯固)[8-1]

新大王(在位:165~179年)は、諱を伯固(もしくは伯句)といい、大祖大王の末弟にあたる。見目麗しく英明で、思いやりがあって憐れみ深い性格であった。 先の次大王は傍若無人だったので、臣民は親しみを感じることができなかった。 伯固は禍や乱の...