三国史記高句麗本紀【第5代】慕本王(解憂) 慕本王(在位:48~53年)の諱は、解憂(もしくは解愛婁)という。大武神王の嫡子である。閔中王の崩御により王位を継いだが、粗暴で思いやりがなく国事を疎かにしたので、民はみな王を恨んだ。 元年(48年)秋8月、都が大雨に見舞われ、二十数カ所で... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第4代】閔中王(解色朱) 閔中王(在位:44~48年)の諱は、解色朱という。大武神の弟である。大武神王の崩御時、太子が幼少で政務を執ることができなかったので、国人に推戴されて高句麗王として立った。 元年(44年)冬11月、即位の大赦を行った。 2年(45年)春3月、... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-9] 冬11月、好童が自ら命を絶った。 好童は曷思王の孫娘にあたる次妃から産まれた。王はその容姿端麗なことを愛し、好童と名付けた。 嫡男である自分の子が太子の座を好童に奪われることを心配した王妃が、王に讒言して言った。「好童は私への態度が不遜です... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-8] 話を聞いた鄒㪍素は、3人を官舎に招き入れ、ともに座って言った。「人は過ちを犯すもの。それを悔い改めるなら、それに勝る善行はありません」 鄒㪍素は3人の友人となった。仇都たちは恥を知り、以後3人が悪行に及ぶことはなかった。 王はこの話を聞き「... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-7] 贈り物を見た遼東郡の将軍が言った。「城内には水源があり、すぐには落とすことができない」そして、返礼して言った。『我が皇帝は、私を信頼され、官軍を出撃させて大王の罪を問わせましたが、国境で数旬がたったにもかかわらず、いまだに要領を得ません。い... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-6] 左輔の乙豆智が言った。「『小敵の強がりは大敵の擒』と申します。大王の軍事力を考えますに、漢兵の多さとは比較するまでもありません。計略を用いて討伐するのがよいかと存じます。力に頼っても勝ち目はございませぬ」 王が尋ねた。「計略で討つとは、どう... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-5] 8年(25年)春2月、乙豆智を右輔(右大臣)に任命し、国政と軍事を任せた。 9年(26年)冬10月、王は蓋馬国(鴨緑江上流域にあった小国)に親征した。蓋馬王は殺されたが、民は安寧で、奴隷にされることも私財を没収されることもなかった。その地が... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-4] 王は戦死者を篤く弔い、自ら負傷者を慰問し、人々をねぎらった。そのため、国民は王の徳義に感じ入り、国事に命を捧げてもかまわないと思った。 春3月、骨句川の神馬が夫餘の馬100匹を引き連れて、鶴盤嶺の麓にある車廻谷に戻ってきた。 夏4月、帯素王... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-3] 5年(22年)春2月、王の軍は夫餘の南まで進んだ。湿地が広がっていたので、固い土地を選んで宿営した。兵士たちは馬から鞍を下ろしてゆっくり休み、警戒を怠った。 それを知った夫餘王は、全軍に出撃命令を出し、高句麗軍の不備をついて急襲させようとし... 2025.04.25三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第3代】大武神王(無恤)[3-2] 4年(21年)冬12月、王は夫餘を討つため出兵し、沸流水(渾江)に陣を張った。 王が川辺を望み見ると、少女が鼎(煮炊き用の三足器)で遊んでいるように見えた。近寄ってみると、鼎だけが置かれていた。これで炊事をすると、火を使う必要がなかった。鼎... 2025.04.25三国史記高句麗本紀