三国史記高句麗本紀【第14代】烽上王(相夫)[14-1] 烽上王(雉葛王ともいう。在位:292~300年)は、諱を相夫(もしくは歃矢婁)という。西川王の長子である。幼いときから驕り高ぶって身勝手な振る舞いを繰り返し、疑い深かった。西川王の23年(292年)に王が薨去し、太子の相夫が王位に就いた。 ... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第13代】西川王(薬慮)[13-2] 11年(280年)冬10月、粛慎が侵入して辺境の民を殺した。 王が群臣に言った。「寡人はたいした能力もないのに、誤って国の大元である王位を継いだ。しかし、寡人の徳では民を落ち着かせて従わせることができないし、周辺国を畏れさせることもできない... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第13代】西川王(薬慮)[13-1] 西川王(西壌王ともいう。在位:270~292年)は、諱を薬慮(もしくは若友)という。中川王の第二子である。聡明、穎悟で仁があり、民は王を敬愛してやまなかった。 中川王の8年(255年)に王太子となり、23年(270年)冬10月に王が薨去した... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第12代】中川王(然弗)[12-2] その後、王が箕丘で田猟して戻ると、貫那婦人が革袋を抱えて迎えに出てきた。婦人は泣きながら言った。「王后様が私をこの中に入れて海に捨てようとされました。幸いにも大王がわずかな命をお与えくださり、妾を実家に戻していただけるのでしたら、これ以上大... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第12代】中川王(然弗)[12-1] 中川王(中壌王ともいう。在位:248~270年)は、諱を然弗という。東川王の子である。きりりとして爽やかな印象の容貌を持ち、知略に優れていた。東川王の17年(243年)に立太子され、22年(248年)の秋9月、先王の薨去によって即位した。 ... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第11代】東川王(優位居)[11-4] 王は帰国すると論功行賞を行い、密友と劉屋句を第一とした。 密友には巨谷と青木谷を、劉屋句には鴨緑江の杜訥河原を領地として与えた。死んだ紐由には大使者の官位を追贈し、跡継ぎの多優を大使者に昇格させた。 この戦役で、魏の将軍は粛慎の南境まで進み... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第11代】東川王(優位居)[11-3] 密友が王に言った。「いま追っ手が目の前に迫っております。この状勢では脱出は不可能です。愚臣が決死の覚悟で防ぎますので、その間に大王はお逃げください」 密友はしんがりの決死隊を募り、敵軍に総攻撃をかけた。王はこの間に脱出し、山や谷に散っていた... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第11代】東川王(優位居)[11-2] 12年(238年)、魏の太傅の司馬宣王が、大軍を率いて公孫淵を討った。王は主簿や大加を派遣し、1000人の高句麗兵で魏軍を助けた。 16年(242年)、王は将軍を派遣し、遼東郡の西安平(遼寧省丹東市)を襲撃して討ち破った。 17年(243年... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第11代】東川王(優位居)[11-1] 東川王(東襄王ともいう。在位:227~248年)は、諱を優位居、幼名を郊彘といった。山上王の長子である。母は酒桶村の人で、王宮に入って山上王の側室となった。史料がないため部族の姓はわからない。先王の17年に王太子となり、この年(227年)に... 2025.04.26三国史記高句麗本紀
三国史記高句麗本紀【第10代】山上王(延優)[10-5] 13年(209年)春3月、王后は王が酒桶村の娘を寵幸したことを知った。これを妬んだ王后は密かに兵を送りこんで娘を殺そうとした。 この企てを伝え聞いた娘は男服を着て逃走した。追いついた兵たちは娘を殺そうとした。そのとき娘が尋ねた。「あなたたち... 2025.04.26三国史記高句麗本紀