三国史記高句麗本紀

三国史記高句麗本紀

【第3代】大武神王(無恤)[3-1]

大武神王(大解朱留王ともいう。在位:18~44年)は、諱を無恤という。第2代瑠璃明王の第3子である。生まれつき聡明で、成長して雄傑、国家の大計を有していた。瑠璃明王33年甲戌の年に11歳で太子となり、瑠璃明王が薨去したため、同年に即位した。...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-10]

しかし、王莽は聞き入れず、詔を発して荘尤に高句麗を討たせた。荘尤は将軍の延丕を誘き出して殺害し、その首を都の長安(陝西省西安市)に送った。王莽は大いに喜んだ。そして、高句麗の王を『下句麗侯』に格下げし、国中に周知徹底させた。屈辱を受けた高句...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-9]

夫餘王は報告を聞いたが、累卵の意味が分からず、下々の者にまで尋ねた。すると、ひとりの老婆が大王に言った。「累卵とは危険のことです。それを割らないというのは、安泰を意味します。王子の言葉の意味は次のようなものでしょう。『大王は自分の危うい状況...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-8]

そうして礪津の東原へ行き、槍を地面に突き刺し、馬を走らせてそこへ飛び込み、槍を貫かせて死んだ。 享年21歳。葬儀は太子の礼葬に則って行われ、遺体は東原に埋葬され、廟が建てられた。その地を槍原とした。 秋8月、夫餘の帯素王が使者を遣わし、王を...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-7]

春3月、黄龍王は使者を送り解明との面会を求めた。解明が行こうとすると、ある人が諫めて言った。「いま隣国が故もなくただ会いたいと言ってきましたが、その真意がどこにあるのか測りかねます」 太子が言った。「天に俺を殺すつもりがないなら、黄龍王は何...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-6]

22年(3年)冬10月、国内(中国吉林省集安市)に遷都し、尉那厳城を築いた。冬12月、王は質山の北側で田猟し、5日たっても戻らなかった。宰相の陜父が諫めて言った。「都を移してから日が浅いため、民はまだ落ち着いておりません。政に専念して遊びを...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-5]

秋9月、王は病に罹った。 巫女が告げた。「これは託利と斯卑の祟りでございます」 王が巫女に謝らせると、病は癒えた。 20年(A.D.1年)春正月、皇太子の都切が逝去した。 21年(2年)春3月、お供え物の豚が逃げた。王は犠獣を管理している薛...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-4]

扶芬奴は兵を率いて入城した。鮮卑はこれを望み見て驚愕し、大急ぎで引き返した。扶芬奴は城門で立ち塞がって戦い、多くの敵軍を斬り捨てた。王軍は旗を立て軍太鼓を打ち鳴らしながら進軍した。 前後を取られた鮮卑軍は作戦に窮し、高句麗軍の力に屈して降伏...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-3]

11年(B.C.9年)夏4月、王は群臣に言った。「鮮卑族(モンゴル高原から満州に拠った遊牧狩猟民族)は領土が険峻なのをよいことに我が国と和睦しようとしない。利ありとみれば我が国へ侵入し、不利となれば墨守して出てこない。国患とはまさにこのこと...
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【第2代】瑠璃明王(類利)[2-2]

2年(B.C.18年)秋7月、多勿侯松譲の娘を王妃とした。 冬10月、百済の始祖である温祚王が即位した。 3年(B.C.17年)秋7月、鶻川に離宮を造営した。 冬10月、王妃の松氏が死去した。 王はさらに鶻川国出身の禾姫と漢人の雉姫を娶って...